本論文は、1920年代の朝鮮で新傾向派文学の代表的な作家として知られた崔曙海の内面世界を把握して、その意識の流れによる階級的ㆍ民族的の葛藤が、日本語に翻訳され...
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2009
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351
KCI등재
학술저널
175-199(25쪽)
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本論文は、1920年代の朝鮮で新傾向派文学の代表的な作家として知られた崔曙海の内面世界を把握して、その意識の流れによる階級的ㆍ民族的の葛藤が、日本語に翻訳され...
本論文は、1920年代の朝鮮で新傾向派文学の代表的な作家として知られた崔曙海の内面世界を把握して、その意識の流れによる階級的ㆍ民族的の葛藤が、日本語に翻訳されて日本文段に発表された次の3編の小説の中で、どんな様相を表わしてくるのかを考察するにある。崔曙海原作の日本語小説 「飢餓と殺戮」、「紅焔」そして 「二重」で感じることのできる共通的な心理は、日帝の植民政策による矛盾された社会構造に対する認識であり、ここで派生された內面的の葛藤の表出は、小説の背景によって、明らかに変化を見せている。これらを考慮にいれて作品をよく見れば、場所の移動は経済的な面に比例し、また、作家の意識が変化されるによって、階級も反転されて表れてくる。又このような意識の変化は、作品の背景によって、階級的ㆍ民族的の抵抗の表出も格段な差を見せている。このような点は、作家が彼の小説の中で、‘搾取者対被搾取者’、‘ブルジョア対無産者’の構図である階級の問題と、‘支配國対殖民国’、‘支配者対支配される者’の構造である民族の問題を取り扱いたかったし、ここに民族的な抵抗を盛り込もうとしたことが推量できよう。
しかし、曙海の小説は極限状況に追われた閉鎖的な個人の葛藤を、自分に圧迫を加えてくる他者や、不特定多数を通じてそれを解消させようとした点で、その限界性があると言えよう。これは曙海が実際の体験を重要視した結果、當時社会の構造に対する根本的な問題の認識に到逹したにもかかわらず、その葛藤の解消方法を社会的な側面で表わすことができない狭小な<個人世界>で解決しようとした原因があったといえよう。このような世界観は彼の小說で敍事の制約をもたらす。のみならず、作中の主人公としてまわりの人を破局に同行して、反動的人物としての個人にとどまるように作用してしまう結果をもたらす。これは社会的な順接を難しくするばかりでなく、民族に対する意識を ‘民族対民族’にまで昇華させることができず、ついには時代と民族の悲劇を事件の展開だけで絶対的なことに受け入れる作家の限界を現わしていると言えよう。
목차 (Table of Contents)
「곤충의 눈, 새의 눈, 잠자리의 눈-국경과 민족을 넘어선 상호이해를 위해」