1853年(嘉永6)7月、東印度艦隊の司令官ペリーが浦賀に来航して‘日米和親條約’を締結してから、日本は1858年(安政5)、‘安政5ヶ國條約’など不平等條約を締結することにな...
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서울 : 高麗大學校, 2009
2009
한국어
833.6 판사항(4)
895.6342 판사항(21)
서울
iii, 229 p. ; 26 cm
참고문헌: p. 220-226
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1853年(嘉永6)7月、東印度艦隊の司令官ペリーが浦賀に来航して‘日米和親條約’を締結してから、日本は1858年(安政5)、‘安政5ヶ國條約’など不平等條約を締結することにな...
1853年(嘉永6)7月、東印度艦隊の司令官ペリーが浦賀に来航して‘日米和親條約’を締結してから、日本は1858年(安政5)、‘安政5ヶ國條約’など不平等條約を締結することになる。このような狀況で、日本という國家に与えられた一番大事な課題は條約改正であって、日本の爲政者たちは西歐の列强と從屬的關係にあると同時に、他の一方では西歐列强の外交理論內を面化しようとしていた。すなわち、自國の領土を確保するために西洋という他者に強いられた理論をもって國內の制度、文化、生活慣習などを植民地化していく‘自己植民地化’を敢行したのである。明治日本は‘文明開化’というスローガンを挙げて西洋の模倣に夢中であった。
荷風はこのように無批判的に西歐を真似する明治政府の亂雜さを痛烈に批判した。當時の日本文壇では明治政府の文明開化西歐模倣を読み取った作家はあまりいなかった。アメリカ留学とフランス留学を経験して日本に戻ってきた荷風は西洋化していく日本の文明と現實を淺薄な西洋模倣として認識し、その結果、明治の文明と社會を憎惡、輕蔑することに至る。當時は‘文明化’‘開化’という槪念が最優先視されていた時期、すなわち、西洋基準をもって東洋のものを計ろうとしていた時期であっただけに、このような荷風の現實批判は大きな意味を持つ。
本論文は、このような批判意識が強い荷風の前期作品に見られる疎外の樣相と作品內空間の意味を考察して、歸國直後の荷風が社會と緊密に連動しながら作品活動したことを明確にしたものである。特に、當時明治日本の具體的な 社會相-家族制度と結婚、學校という公的空間と劇場という非日常的空間の對立、浅草と銀座空間が表象するもの、‘散歩’の近代的意味などを読み取って、作家が當時の社會に向かって積極的な声を出していたことを明らかにしたことにこの論文の意義がある。
明治42年(1909)は作家永井荷風にとって大きい意味を持つ年である。成瀬正勝は明治42年は ‘彼に新進作家に地步を確保させた決定的な時期であった。’と言っている。荷風は42年1月、『ふらんす物語』中のいくつかの作品を発表し,続いて短篇六つ、中篇一つ、さらに新聞連載長篇に評論、訳詩、隨筆、談話筆記に至るまで発表された作品の数は40餘篇におよぶのである。しかし、‘荷風にとっての明治42年の意味’を発表した作品の数が多いところだけから探すわけでははない。それは明治36年、アメリカに旅立ってから約5年間、アメリカとフランスでの生活を終えて日本に帰った永井荷風の藝術觀が一変されたからである。この問題について相馬御風は‘『ふらんす物語』まで荷風がもっていた藝術心境は意識的に破壊されて、社會批判、享樂主義、諦念․冷笑的人生觀、官能美の世界を扱うようになった'と述べている。「放蕩」には主人公が體驗する外国での自己疎外が現れている。またと「歡樂」には社會との疏通を拒む結婚拒否の意識がみられる。このような疎外の樣相は単に個人的疎外のとどまらず、家族主義または國家主義への拒否にほかならない。また、‘西洋との比較を通して荷風自信の日本文明批判意識を強く主張した作品’として読まれてきた「歸朝者の日記」は帰国後一變した作風についての説明にもなり、以後、荷風がとった藝術家的態度を闡明したという意味を持つ同時に、この作品には‘歸朝者’としての疎外の認識が現れている。最近になっては、この作品の中で歷史-地政學的動態を読もうとする試みも見られる。このように荷風の作品の中の空間についての研究が増えていくのは作品内の空間と作家精神との間に密接な関わりがあるからである。しかし、大抵の場合、作家の實際經驗と作品内の空間を結び付いている。しかし、本論文では作品内の空間が何を表象しているかを究明していこうとしている。「すみだ川」の空間ー隅田川、學校と劇場、浅草ーの表象する意味を察すると、近代の規律と制度、それに基づいた明治文化への同化を拒否した荷風像が浮かび上がるのである。明治42年、荷風にとって日本の俗惡な近代化は批判せざるをえない對象であったのは自明なことである。具體的空間をもって自分の批判意識を形象化しているのである。「監獄署の裏」の中には<庭の内>と<庭の外>という二項對立の空間が構築されていて、主人公である<私>はそれぞれ理想と現實、美と醜、秩序と無秩序、父なるものと母なるもの、明治と江戸を表象している空間を通して自分の血緣についての思いや、職業觀、藝術觀、社会批判などを語っていくのである。すなわち、作家は二項對立的世界を構成することによって、‘歸朝者’という特殊なスタンスに立っていた<私>の目に映される明治の社會像を批判するかたわら、<母なる空間>への移動をみせているのである。これは以後、荷風が江戸回歸の道を歩むことと密接な関わりがあると考えられる。日本の俗惡な近代に失望し、そこから遁走した荷風が母なる<江戸空間>に閉じこもったのは当然な結果だったかもしれない。「深川の唄」この作品には江戸と明治の間を逡巡している當時の永井荷風の思考の軌跡と共に真の近代人とは何かについて苦惱する姿が現れている。特に、この作品は山の手、四谷附近から日比谷、銀座を通って下町の深川に至るまでの主人公の散歩の過程が主な内容をなしている点に着目して‘散策’という行爲の意味とその散策空間が表象しているのは何かを分析していくことにした。‘東京’と代表される當時の日本文明は皮相的な西洋模倣に傾いて、日本の傳統と甚だしい不均衡狀態に置かれてあった。そのような現實を見抜いていた荷風は深川を幼年の時、かつて經驗したことのある‘親密な經驗空間’として、また‘再現的空間’として再發見して配置することによって均質化された日常性の空間から新しい空間的實踐に基づいた空間を具現しているのである。しかし、荷風は辛辣に明治国家を批判したにもかかわらず、自分で自分が明治時代を生きている人間である自覺と使命感を持っていた事実も見逃してはならないと思う。作品の最後の部分で橋を渡って‘Wagnenの肖像畵とNietzscheの詩集が自分を待っている処へ帰らなければならない’という新しい時代の日本の詩人になろうとする荷風の自己認識に違いないのである。「冷笑」と「日和下駄」には疎外を超えようとする調和と和解の空間が配置されている。‘江戸を好んで、江戸に生きたがっていた作家’と言われる荷風は「冷笑」と「日和下駄」で江戸と東京の接點を提示している。
明治40年代荷風の文学は衰殘の美、悲哀、淋しさという情調で規定されてきた。しかし、當時荷風は自分の疎外を充分に認識していた。明治40年代荷風の文学は內部へ收斂するのではなく、外部の壓力に応じた結果物であったのである。このような読み方が荷風の前期作品を再評價する切っ掛けになることを期待する。
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