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김희조 대한일어일문학회 2010 일어일문학 Vol.45 No.-
作品は全部で六章からなっており、第一章には主人公の堀越玄鶴の成り上がってきた経緯と、その彼が住む山房とが紹介されている。第二章からは肺結核にかかり死が迫っている堀越玄鶴の心境が描かれている。すなわち、玄鶴山房を背景に、主人公の堀越玄鶴の苦しみと孤独の世界が、家族との葛藤及びそれを冷笑的な態度で凝視する看護婦の甲野の姿を通して、暗鬱な雰圍氣で描写されているのである。玄鶴は肉體的衰弱と孤独と苦しみのなかで、自分の人生の浅ましさに気づく。ところが、彼のこのような浅ましかった長い人生を知っている者は、玄鶴山房内に一人もいない。彼は安息を求めて自殺を図るが、それも未遂に終わり、その一週間の後、肺結核で死んでしまう。彼の浅ましかった長い人生に終止符が打たれたわけである。彼に安息を与えるのは唯、死だけであったのである。作者芥川は、玄鶴を以て近代人の抱く孤独と不安を描きながら、さらに、玄鶴に付き添う甲野を通して自己中心的で恣意的に生きていく近代人の姿を描いているのである。
김희조 대한일어일문학회 2009 일어일문학 Vol.41 No.-
本作品は『續西方の人』と共に芥川とキリスト敎を論ずる際、缺かせない作品になる。というのは、この作品にはキリス ト及びキリスト敎に關する作者芥川自身の思想が直接に表れているからである。『西方の人』には三十七章にわたって 作者芥川の思想が詳しく描かれ、芥川のキリスト敎硏究の重要な資料となっている。芥川はキリストの一生を孤獨な一人 の天才と見ている。干涸びた現實から<永遠に越えんとする>天才として、この地上、現實から挫折した、<無殘にも折 れた梯子>として喩えている。芥川は生きていく現世に絶望し、この野蠻な人生に眞の安息を與えられるものは何一つない と述べている。彼の深い絶望感が讀みとれるのである。芥川はキリストの一生を以て、<永遠に越えんとするもの>、キリ ストを安息所を見つけられず、ついには野蠻な現世に無殘に折れた天才として描いており、その天才に芥川自身を投影し ている。ようするに、芥川はキリストと同樣に一人の文學天才として、苦しい現實、野蠻な人生を越えて文學的情熱を燃 やそうとしたが、その苦しい現實に無殘にも折れ挫折してしまったというのである。この『西方の人』一篇にはキリストに託し て、野蠻な人生、苦しい現世に對する文學天才芥川の深い絶望感が描かれているのである。
김희조 대한일어일문학회 2011 일어일문학 Vol.50 No.-
本作品は大正五年六月の雑誌『新思潮』に発表された短篇である。テキストは全部で4章になっており、ストーリーは支那の長山に住む酒飲みの劉氏に関する物語である。酒飲みの劉大成は長山の屈指の財産家であるが、毎日酒を飲むばかりで、他の道楽はない。その酒量は「いくら飲んでも酔った事がない」ほどである。それは腹の中の「酒虫」のためであると蛮僧に言われる。劉は蛮僧の言葉を受け入れて、腹の中にいた酒虫を除いてしまう。劉はその後一切酒は飲まないことになる。ところが、劉は酒虫を除いてから体も衰えるし、身代も段々無くなり零落してしまう。このような劉の境遇について、作者は<酒虫は、劉の病でもなければ劉の福でもない>という自分なりの解釈を付け加えながら作品を結ぶ。つまり、この作品は読者に人生の幸、不幸を決定するのは何か、自己存在ということは何かという問いを投げかけている。
김희조 동북아시아문화학회 2009 동북아 문화연구 Vol.1 No.18
The text consists of eight chapters in all and develops centering around the conflict between Osmi and Odami. Their happy family has been collapsed due to Odami's greed and the story ends with Odami's death.The writer Acutagawa closes his work as <dawn> in contrast to <twilight> or <pitch-dark night>. His intention of setting the end as <dawn>could be inferred. It suggests that the hopeful rest of his life like <dawn> is waiting for Osmi who has realized the significance of the family.
김희조 한국일본어교육학회 2022 日本語敎育 Vol.- No.101
Mitsunotakara” is the only children's story play by Akutagawa Ryunosuke published in the 1922 magazine “Ryōhu no Tomo”.The prince, princess, and nigger king in the story were each judged only on the outside, ignoring the inside of the other due to the "three treasures".They judged each other based only on their outward appearances, without knowing each other's inner lives, and this led to an inevitable clash.However, as the three clash, they realize their true selves.The three of them bend their previously stubborn egos and come to understand each other's state of mind.The three were unaware of their true selves because of the "three treasures," but the moment they realized that the "three treasures" were useless, they realized their true selves.Through the monster of "three treasures," the author Akutagawa teaches us the lesson that giving up the desire to take these treasures is the only way to awaken our true selves.