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전염병 발생에 대한 확률과정모형으로 사용되는 분기과정에서 생산 분포는 2차 감염자의 수의 확률 분포를 의미한다. 여기서 생산 분포의 모수에 대한 추정량의 정도를 충족시켜 역학 자료의 모형의 적합성을 높이는 것이 중요하다. 본 논문에서는 모수의 재구성을 통한 베이지안 방법을 이용하여 소표본에서도 좋은 특성을 갖는 모수를 추정하는 방법을 제시한다. 본 논문에서는 베이즈 정리를 사용하여 모수의 사후 분포를 유도하였고 다섯 가지로 가정된 생산 분포에 따른 분기과정을 2015년 국내 메르스 자료에 적합하였다. 그 결과, 음이항 분포를 생산 분포를 가정하였을 때에 다른 생산 분포를 가정하였을 때보다 모형의 적합성이 더 좋다는 것을 알 수 있었다. 본 논문에서 생산 분포에 따른 분기과정에서 주요전파사건의 임계값과 전염병의 소멸확률을 계산하였다.
第一部 漱石文學とナショナル·アイデンティティ 序 近代·文學·ナショナル アイデンティティ 世界各地で民族紛爭がひましに激しくなる中、最近のナショナリズム批判は十分な說得力をもたず、ナショナル·アイデンティティ自體の問題を明らかにすることが必要と思われる。アイデンティティの多樣性·歷史性はすでに指摘されているが、管見のかぎり、ナショナル·アイデンティティが志向するものを分析しての批判はいまのところない。ナショナル·アイデンティティを支える中心的役割を擔ったのは、文化の中でも「文學」であり、「近代日本」について考えるとき「文學」とのかかわりを考えることは重要と思われる。近代日本を代表する作家、漱石についての批判はポストコロニアリズム批評を中心に始まっているが、まだ漱石テクストの全容は充分に分析されてはいない。本稿はナショナル·アイデンティティを視座に漱石文學やその他のテクストを論じることで「漱石」にとどまらない、すなわち「日本」にとどまらない「近代」の問題を明らかにすることを目指している。本稿が最終的に目指すのは、二十世紀の問題点を見ることに基づいての、未來の望ましい共同體のあり方の模索である。 第一章 別れる理由-漱石のロンドンテクストが語るもの 漱石が始めて公にした文章である「倫敦消息」や渡航·イギリス滯在中の日記や書簡からは「西洋」=「文明」に對する漱石のアンビバレントな姿勢が浮かび上がってくる。 漱石は目にする「西洋」を常に數量化し、日本との比較において優劣をつける傾向を見せていて、發展至上主義的進化論的價値觀を사かせている。その時の漱石の劣等感は、西歐によるアジア差別的認識を內面化したものであった。漱石は日本という主體が希薄化することを恐れ、西洋に「追い付」き、西洋を「敬服」させたいという欲望をもつようになる。漱石が陷った「黃色い」という自己認識はイギリスにおいて始めて作られたものであり、それは、他者との出會いこそが「自己」確定のきかっけとなった「近代」という時代に漱石がいたことを示す。漱石の警戒意識は强い自己尊大意識と他者に對する意味解釋の過剩ゆえのことだったが、「自己」確立への强い欲望を持つようになった漱石は以後、「西洋」に「文學」で對抗することを考える。漱石テクストに繰り返し西洋=文明批判が登場するゆえんである。 第二章 文明觀と擬似植民地的恐怖 漱石にとって「開化」とは集合意識の頂点を示すものだった。漱石は決して「開化」を否定してはおらず、むしろ「開化」のための競爭は肯定的に捕らえられていた。ただし、その「開化」は漱石には「外發的」「不自然」なものにしか見えなかったが、それは「開化」を西洋による「侵食」と考える認識があったためである。そのような意識は西洋の開化こそが「自然」なものでその分强いとする思考に基づいていたが、そこには「開化」―「文明」なるものに對する漱石の誤解と過剩な主體意識があった。自己消失にたいする<擬似植民地的恐怖>は「空虛」という價想の感情を呼びかけ、「神經衰弱」を當然視する。しかし、制度や日常における西洋の文化的「侵食」を恐れる漱石の恐怖は、異文化の受容のあり方に對する誤解から生じたものだった。 漱石がそこでとった戰略は周知のように「自己本位」で、それを支えたのは日本の「特殊性」をもってすれば太刀打ちできるという考えであった。漱石が日本における西洋風樣式の定着に否定的だったのは師ケ―ベルの影響が大きいと考えられるが、ケ―ベルの憂慮は、充足されないオリエンタリズムを基盤にしている。そのような言說を受け入れさせたのはナショナリズムであり、そこにはオリエンタリズムとナショナリズムの共犯關係を見ることができる。漱石の「恐怖」は日露戰爭の勝利をきっかけに「輕蔑」に變り、「誇り」への欲望となる。しかし、漱石が夢想した「日本」の固有性とは、日本という共同體がその構成員に强制し、結果として慣れさせた規範のことにすぎない。何よりもそこには一樣な「純粹」幻想があるが、漱石という人物と文學自體が、英語と日本語で綴られたノ―トのあり樣が語っているように、ハイブリッドな存在だったのである。 第三章 「西洋」のおみやげ―「現代日本の開化」と「私の個人主義」 「現代日本の開化」は、すでに第二章で確認した、漱石の開化觀、西洋への警戒意識、「日本」という一樣の集合意識の存在を前提としたナショナル·アイデンティティへの信賴、異文化受容にたいする誤解を改めて確認させてくれる。「西洋」を强いものと考える恐怖にもとづく、「强く」なることへのこだわりは、漱石の<强者主義>を露にしている。そのような擬似植民地的恐怖が、强者の「侵略」自體にたいする警戒の聲とは似て非なるものだったのは、したがって平和を求める倫理的呼びかけでなかったのは、のちにみるように日本が實際に「强者」になってアジアの「侵略」に乘り出したときの漱石の姿勢と發言が現している。 「私の個人主義」でも、すでに見たように「國民」的感受性の存在が前提となっているが、「國家」共同體の感受性が一樣なものでありえないにもかかわらず、漱石は自己の感受性に合う俳句的感受性を「日本」として表象している。たとえ「日本」獨自のものがあるとしても、「源氏物語」や「歌舞伎」の世界など、「俳句」の世界と違った「日本」があることがそこでは自覺されていない。漱石の「自己本位」とは文化帝國主義を批判するものというよりは、擬似植民地的恐怖を基に國民に「警戒」(攻擊も)を語りかけるナショナリズムの言說に酷似している。 漱石の個人主義は國家主義を容認するものだった。そしてそこでの「個人」とは「人格を積んだ」エリ―トであって、漱石の個人主義は實は「平等」をみとめていない。「文明」=「敎育」度の高い男性エリ―トたちの優位を認め、「國家」の中心に位置させるその思想は、外部にたいしても例外ではなく、漱石が、日本のアジア侵略を容認したのはその個人主義思想自體のもつ限界によるものだったと言える。 もともと漱石は西洋=個人主義=自由=不安、東洋=關係優先=秩序=心の安定、というような졸組みで東洋と西洋を考えていて、西洋を否定していた。西洋に對抗すべく「個性」の發達も重視する一方で、自由をもとめる個人主義の發達は趣向の多樣さを招いて「國民」としての共通な趣向を失うことになると考えた。人人が「ばらばら」になるとの嘆きはそのことにほかならず、そのような狀態は「永久な文學」の危機を招くとも考えていた。そこで漱石は「國家」の「調整」(介入)を緊急なものとまでするのである。漱石の個人主義は、いわば秩序主義·國家主義的個人主義だったのである。漱石にとって「個人」はしょせん「國民」の「集合意識」の永久な存續のために存在するものであり、「個性」の發達を主張したのも最終的には「日本」という「全體」の「特殊」性を發現するためだった。そのために「强く」なることを志向する漱石の「個人主義」には外部とのコミュニケ―ションの可能性は見えず、思想史的には全體主義的個人主義というべきものである。漱石の「則天去私」は秩序への順應を語るものであり、漱石の「個人主義」はそれと對峙するのではなく、むしろつながるものだったのである。 第四章 「東洋」への回歸―『草枕』 『草枕』は漱石の西洋にたいする對抗意識をもっとも顯著に表しているテクストである。「美しい感じ」を志向する「俳句的小說」『草枕』のような試みは、日本はむろん「西洋にもない」ものだとしながら、漱石はそれが「世界」に拮抗すべきテクストを目指したものであることをはっきりと言明している。そして『草枕』はその內容においても<反西洋>を志向していて、文學をはじめ西洋のものがことごとく批判される。その批判の頂点におかれたのがミレ―の繪だったのであり、畵工がそれとは違った畵―美を志向するのも全體的な反西洋の構圖の中でのことである。 『草枕』の舞台が田舍の溫泉だったのはまずは反都會志向ゆえのことだったが、それが畵家にとって「非人情」の場所として選ばれたのもそこがもっとも「東洋」的な場所と考えられたからである。畵工が溫泉で「昔」を夢想するのはプリミティブへの欲望にほかならず、最後に「憐れ」という傳統美が用意されていたのは必然的な展開である。「昔」は畵工にとってもっとも「非西洋」的な時間であり、そこでミレ―の畵(西洋)を思い起こすのは、西洋への對抗意識を背景においた「自己本位」的發想であった。 ところが溫泉とは、「文明」の利器である「汽車」のおかげで都會の人が出かけていく場所だったという点で、畵工の汽車―文明批判は矛盾している。そしてそこで强調されていた「個性」意識も實は「近代」-「文明」―「西洋」のおくりものである。 その「東洋」的―傳統的場所で、女は眺められる存在となり、男は美の創造者となる。それは、「文明」人である「男」が、「自然」で「野蠻」な存在としての「女」を、「憐れ」という傳統美の中に封じ입めることでもあった。そしてそれは、「文明化」しつつある恐怖の中で「傳統」を確認·保存しておきたいとする、ナショナル·アイデンティティをめぐる男の欲望がさせることだった。 第五章 排除への欲望―『坊っちゃん』 『草枕』では「田舍」は聖化されていて人人のプリミティブな欲望を發言させる場となっていたが、『坊つちやん』はすでに指摘されているように「田舍」を差別する話である。『坊つちやん』には赴任地を絶えず東京と比較し貶めようとする都會主義―文明主義が見られ、それは「坊つちやん」自身が一方では赤シャツの西歐追隨主義を批判していることと矛盾している。そして田舍への差別意識は、「日本」の中の「野蠻」を制壓し·排除しようとする、「西洋」=他者の視線を意識してのことだった。當時は「田舍」と「都會」の區分はまだ定着しておらず、『坊つちやん』にはいわば後に確定されるであろう地域間の對立が書かれている。そこでは未知の他者への恐怖が否定的表象を絶えず作りだし、根源·本質主義を助長する。「田舍」が「不淨」の地とされた背景には異質なものを絶えずひとつの表象の中に圍い입もうとする選別と排除の運動があり、それはみんなが「平等」になったはずの時代における、<近代>國民統合の新たな動きであった。淸と「坊つちやん」の關係は從來の從僕關係であり、「坊つちやん」の淸への感情には、もはや無條件的な支配を期待できなくなった元「旗本」のひそかな夢が隱されている。淸もまた、忠實に忠誠を示すことで「涉り者」となる境遇を避け、定着者としての安定した立場を保とうとする欲望を持っている。『坊つちやん』は、都會と田舍の、相互的恐怖と、排除のための圍い입みへの欲望の物語である。 第六章 アジアという他者性―『滿韓ところべ』 『坊つちやん』における問題点―都會·文明中心主義とそれにともなう差別意識は、植民地になりつつあった場所である韓國と滿州を旅行した時の紀行文 『滿韓ところべ』にもっとも明確に表れている。 漱石が中國に對して殘している肯定的な發言は、慣れ親しんだ古い「文化」に關するものである。現實の「人間」である「汚な」い中國人·朝鮮人に對しては漱石は閉口し、異質な習慣に反感を示す。彼らに對する視線は抽象的だが、支配下にある人間に對しては好意的であり、その關係を本質化する發言をしている。 「開化」されて「日本」化されている地域に對する見方も肯定的で、それは漱石の發展至上主義·文明主義を示す。また、「日本」のために「個人」を犧牲にしていた植民地開拓者たちに對して「賴もしい日本人」とするような、國家主義的發想も見せている。漱石にとって滿州進出は「男子會心の事業」だったのである。そしてその「事業」が作り出した風景を「純粹な日本の開化」としているように、日本が主導する「開化」に對しては肯定的であった。 漱石は作品の中でも男性の植民地における「冒險」精神を觸發するような發言を揷入していて、日本の植民地政策を批判していたとすることはできない。 第七章 「インデペンデント」の陷穽 漱石がアジアの別の人人を規定した「汚い」という言葉は、感覺的なものでありながら、「淸潔」度で文明度を測る帝國主義的視線という点で帝國主義の先端に立っていた南滿州鐵道會社の人たちと變らない立場でのものだった。日本においても「衛生」は文明開化の言說のひとつであり、早くから福澤諭吉や後藤新平も强調した、「近代」國家の指標でもあって、そのような感覺は歷史的·制度的なものだったのである。 また漱石は「戰爭」自體に必ずしも反對ではなく、その「個人主義」が國家主義と必ずしも對立するものでないことを示している。日露戰爭での勝利を喜んだのもそのような文脈のなかでのことで、漱石は武力や經濟においての成功が文化の上での成功を保證するものと考えていた。それが「日本」の價値を高めるものと考えていたのである。漱石は、自らの擴張や勝つことを喜ぶナショナリズムから自由ではなかった。主體確定へ乘り出した「近代」の「東洋」の知識人としてはむしろ當然のことでもあったのである。 第八章 跳躍と懷疑―『それから』 漱石の個人主義がその可能性を見せていたテクストは『それから』である。代助は、自分の美にたいする關心が深いが、それは言われてきたようにナルシスト的な次元のものというより「男」の言說に對抗してのものと見るべきである。代助は、「度胸」「膽力」こそが「男」の持つべきものとする父の價値觀に抵抗し、「舊時代のもの」として批判する。そして得は「仕事」や「成功」や「國家」の重要性を强調するのだが、それは「男」=「國家」の言說にほかならず、仕事をしていない代助は「國家」の期待の地平に應えていないことで、富國强兵を目指す近代國家の言說に對抗している。 「因緣」を重視した結婚を勸めようとする父に對して「自分で존えた因緣」を重視する代助の姿勢は、共同體の規範より自己を優先視する個人主義に立脚してのものである。そして、父親が重視する「義理」「義俠心」という共同體の規範を重視して三千代を平岡に讓った過去が代助にはあったのだが、代助はそのことの抑壓性に氣づくようになっている。父に抵抗することは傳統的價値觀を否定することであるだけでなく、「男」の價値觀、さらには「國家」の秩序に抵抗することだった。代助は「自己」の欲望を「生活欲」と呼び、三千代を取り返すことで傳統的な「道義欲」への反亂を試みる。 しかし、代助は「生活欲」を重視する個人主義が「我」の擴充を呼ぶ「西洋」からのものと考えていて、完全にその呪縛から解き放たれているわけではない。そこでテクストの末尾には、共同體の秩序を壞してしまうことへの懷疑―不安が、色濃くあらわれることになるのである。そして實は作者漱石は制度を逸脫する變を社會秩序を破壞するものとみなしていて、肯定的に見てはいなかった。 第九章 子供不在の意味―『門』 『門』の夫婦の間に龜裂が入っていることは旣に指摘濟みだが、それは宗助の「子供」と「成功」への欲望ゆえのものである。宗助は自分の家を「缺如」の感覺でとらえ、そのような感覺はお米にも罪の意識を持たせている。二人とも、「子供」がいてこそ完全な「家族」とする「近代家族」幻想の中にいたのである。宗助が神經衰弱にかかっているのも自分の結婚に滿足していない證左であり、宗助はお米との過去をあやまちとして認識している。「腰弁」としての現在の姿もお米とのことがなければなかったものと考え、坂井からは現在の自分を、安之介からはありえた過去の「正しい」結婚の姿を見ている。 お米もまた、妻としての義務である子供の生産を終えその子供が「成功」することで母としての權利を滿喫している叔母の姿から、「幸せ」を見ている。弟との同居がお米にとって苦しいのは、すでにそこに「近代家族」認識が入りこんでいたからである。子供のいないお米にとっては、弟の存在は將來の安定した地位までをも奪いかねない存在でもあった。 お米の感性は、「産む性」としての女性規定が强まった近代國民國家のものである。將來の「國家」の力になるはずの「子供」を設けない家庭は「近代家族」ではありえず、宗助とお米は「近代家族」を作れない焦燥感でそれぞれ神經衰弱とヒステリ―を病んでいる。 子供がいることを當然とする女=産む性の規定は異性愛主義に基づくものでもあり、異性愛主義に基づく一夫一婦制は婚外の交涉を禁止する。それは家父長制下の男性が自らの血緣の混亂を防ごうとしたためと考えられるが、姦通を禁じ、罪惡視する一婦一夫制は、家父長制的近代國民國家の<秩序>を志向する。姦通した男女を後悔させ、不幸な姿として描くことで『門』は姦通を斷罪しているのであり、『それから』で見られた懷疑の行方を示していたと言える。 第十章 漱石とショ―ペンハウア― 『門』における「子供」と結婚の關係に關する考えにおいて漱石はショ-ペンハウア-の影響を受けていると思われる。漱石とショ-ペンハウア-の關係はあまり觸れられてこなかったが、漱石はショ-ペンハウア-をよく吸收していた。 漱石がショ―ペンハウア-に大きな關心を持っていたことは藏書への書き입み調査から知ることができる。東北大學に所藏されている二冊の著書には漱石がショ-ペンハウア-を深く讀んだ痕跡が見られる。具體的には文體に對する考え、내いと過去の連想についての言及、「子供」を種族保存のためのものと考える變愛觀などにおいてだが、「子供」を設けられなかった結婚を不幸なものとする考えなどにおいても漱石はショ-ペンハウア-に共感している。そして、それは第三章で述べたような漱石の民族意識や個と全體の相關關係の理解にも深いかかわりがあるものと思われる。 なお、女の愛は性的關係を結んだあとにむしろ高まるものとすること、人間は利己的なものだとすること、人間は噓をつくものだとする認識などにおいて漱石テクストはショ-ペンハウア-に似通っている。さらに、「正直さ」にかける「技巧」者としての女性觀、「知」の男性觀なども漱石の考えはショ-ペンハウア-から近いところにあり、少なからぬ影響を受けていると考えられるのである。 第十一章 恐怖と不信―『行人』 『行人』は、心を支配できない女に恐れをいだき、他者化し、その結果として關係を結べず孤獨に陷った男の物語である。一郞は妻の愛を不變、あるいはますます高まるべきものとしているが、お直からその確信を得られず、女は「信賴」できないものとする。 それは女の「心」をも所有したい支配の欲望の發露だが、同時に、女という種を、その氣持ちが把握できない別種のものと考える他者化の過程でもある。 一郞にとっては自己規制しない自然人としての女こそが好感の對象であり、それは女から自己表現の能力をうばおうとする欲望である。しかし、心を사こうとする一郞に對してますます武裝し、自己の中に深く沈潛していくお直の「强」さは、二郞にとっても一郞にとっても「恐ろしい」恐怖の對象である。二人にとって、理性をともなった忍耐强い女はミソジニ―の對象でしかなかったのである。 それに反して一郞は二郞やHには無條件の信賴をよせており、「血緣」と「同性」を優先視する男共同體を作っている。一郞の孤獨地獄は他者に對する警戒と不信によるものでしかなく、その貞操試驗は女にたいする不信への欲望とさえ言えるだろう。 第十二章 『行人』と沼波武夫『始めて確信し得たる全實在』 『行人』は、「塵勞」との間に構成の破綻がいわれてきたが、その背後には一冊の書物があったと思われる。『行人』が中斷されていた大正二年の八月の終わりごろに漱石は沼波武夫から本を贈られていて、深い共感を示す返事を送っている。「孤立」への共感とそのことを考えることの重要さについてであった。この本は現在國立國會圖書館に所藏されていて、「自由講座」と稱する講演會での六回講演をまとめたものであることが確認できる。內容は「宇宙の意味」を知ろうとする、「眞」の探求であった。そして、マホメッドの逸話、不安と神經衰弱の問題、科學、實行、思考の過剩、意志、熱中、發狂、自殺など、「塵勞」のキ―ワ―ドといっていい言葉が使われている。 漱石は「歸つてから」で『行人』を終わらせるつもりでいたが、この本を讀んで構成を變えたものと考えられる。沼波が說く「實在」の問題には、西田幾多郞の純粹經驗論との關係も見られ、必ずしも獨自なものではなく、漱石も沼波も精神主義が台頭した明治三十年代という時代の流れの中に位置付けられるべきでありながら、沼波の「塵勞」の成立への影響は大きかったものと思われる。しかし「塵勞」の揷入は、『行人』における個人の苦惱を一般化し、男女の問題を人間の問題として一般化してしまう遠因となった。 第十三章 個人主義の破綻――『心』 『心』で、先生は「現代」を批判している。それは「自由と獨立と己に充ちて」いるという理由からであり、それは先生による「明治」の差異化の試みだった。「明治」という時代は、「倫理」的時代として價値化され、それに殉死した自らや乃木の死も「倫理的」ものとされる。 Kの死の直接の因は、變の氣持ちを先生が告白できなかったことにあるが、それは「變愛」に觸れることを「精神」向上に反する行爲とみなす男性共同體のイデオロギ―ゆえのことであった。彼らにとって「女」は氣になる存在でありながら表象を禁じられた、意識下に葬られるべき存在である。後に先生が內面の告白の對象を妻にではなく、男である「私」に求めるのもそのためである。先生にとって「女」は信賴に堪えず、「男」の深い苦惱を理解してもらえるような存在ではない。男たちの「高尙」な「精神」の爭鬪から女は排除されていたのである。そういう意味で「心」とはあくまでも「男」の心である。「若い」「私」が選擇されたもうひとつの理由は「次世代」を必要とする民族·國家的發想にあった。 個の身體性より、公の觀念性を優先することが「明治の精神」だった。そこでは自己―「己」を優先してはならない。早くに保田與重郞は「明治の精神」を「尊王」のこころとし、「西洋化」が「個人主義」―利己主義を蔓延させてそれをゆがめたとした。漱石の「現代」批判も同樣の文脈にある。當時は乃木の殉死が批判されてもいて、實は「明治」は一樣ではなかったが、その中から「國家」への求心性を大きくクロ―ズアップしたのが漱石の『心』だった。 『心』が大きく評價されたのは明治百周年となる一九六○年代後半においてのことで、それは「明治」を新たに蘇らせる、明治の記憶化作業であり、オリンピック開催を無事濟ませ經濟大國へと進入した、戰後日本の新たな主體確認の作業でもあった。 大正期、日本は世界にほこるべき「文豪」を必要とし、それにふさわしい人物として選ばれたのが「西洋」「文明」を批判して「自己本位」を强調していた漱石だった。それは、武力面だけでなく精神面でも先進國であることを證明してくれることを願ってのことだった。今でも「明治の精神」を語る『心』は、「日本」という主體確認の欲望を滿たしてくれるテクストとして利用されている。そこで言われる「公」の精神が現代の自由主義史觀と酷似しているだけに漱石批判は必要なのである。 第二部 ナショナル·アイデンティティの諸問題 第十四章 「國醫」鷗外の選擇―『舞姬』 『舞姬』は日本の男が西洋の女を棄てる、日本近代初めての物語である。豊太郞にとってドイツはまず「西洋」であり、その西洋は豊太郞にとって驚くほどに美しい場所だったが、そのことに心を奪われまいと自制する。「勇氣」をもたない豊太郞がエリスに接近できたのは、エリスが「泣いて」いる「少女」であるという、自分より「弱い」立場にいたからである。そこでは自らの「黃なる面」を意識させる負としての「東洋」は忘れていられたのである。エリスは貧しく、十分な敎育を受けておらず、さらに「訛」を使うということにおいて、標準語を使う東洋のエリ―ト豊太郞にくらべて劣る位置にいる。それは「東洋」の靑年と「西洋」の少女を「師弟」關係にすることで「西洋」と「東洋」の位置關係を逆轉させていた。 豊太郞にとってエリスとの生活は「個」の生活であり、職場を失ったのは仕事や國家という「公」から身を引いたことでもあったが、相澤は「仕事」に生きるべき「男」性としての生き方を强調することで成功に結びつかない「愛」の排除にとりかかる。そこでは男同士の約束が女との約束より優位におかれるべきものとされていた。エリスを棄てることが可能だったのは「狂人」となったからだが、それは「狂人」の排除という近代國家プロジェックトに加擔する行爲であり、ドイツという國家にとって周邊化されていた人物だったエリスが變人として選ばれたのは必然だった。それは國家によって統御される「個」の悲慘な姿でもある。豊太郞がエリスを棄てたのは個人的な功名心よりは「日本」という國家に有用な人物になろうとする欲望ゆえのことだったが、それはあらゆる價値の上に「故鄕」や「國家」がおかれるべき言說が台頭した時代を背景においていた。『舞姬』は、一度「西洋」の女を棄てることで確立されるべき「東洋」の國家的男性自我の物語である。そして豊太郞の物語を明治知識人の仕方なき選擇として受け取った近代日本の『舞姬』受容は、鷗外が提示した國家意識を內面化する過程であった。女の妊娠した身體を男の「義理」-精神より輕視したことは、衛生學を專攻していて「國家」の「病」を治し强くしていくことを考えていた鷗外において「個」の身體的健康は重視されなかったということを示す。「近代的自我」とは「個」のレベルにおいてではなく、むしろナショナル·アイデンティティのレベルにおいて發見されていたのであり、それはナショナル·アイデンティティ以外の自我のあり方を抑壓する過程でもあった。 第十五章 柳宗悅と近代韓國の自己構築について 白樺派の同人でもあった柳宗悅は「朝鮮」に關して、當時の日本の知識人としてはまれに見る好意的な言葉を殘している。柳は軍國主義を批判し、日本が植民地に對して「愛」の姿勢で接すべきだと主張し、その手段として「特殊性」に注目するが、それは最終的には「一致」―「同化」を目指すものだった。その「一致」を可能とするために抑壓的な姿勢でない、「愛」に基づいた柔和政策を唱えていたのである。それは「力」ではなく「情」の日本像、それまでの「政治」的日本像のかわりに「文化」-芸術の日本像を構築しようとすることだった。そのような姿勢は「陶器」に淚の訴えや「女」を見出すような本質主義的なものへとつながっていく。 柳は朝鮮の「特質」を見つけようとし、そのような本質主義は朝鮮だけでなく中國や日本をも對象にしていた。朝鮮に「近代以前」の野蠻な「自然」をみようとする試みは文明=男=日本という圖式作りの過程でもあり、そこにはお互いを參照しながら自己を構築していった<近代>の姿がある。それは「同化」を目指しながらも「差異」を殘すことで「差別」の根據を作るものであった。 柳は同樣のことを台灣、沖繩、アイヌを對象にしてもしていた。政治的にほろびても、文化的に「永遠」に生きるという錯覺をもたらせて抵抗をふせごうとしたのである。 日本の「民芸」を發見したエリ-トたちは「民衆」を價値化することで「近代」國家統合に寄與したが、そこにはその價値を見出す目をもつ「文明人」としての自己意識があった。それは、「西洋」-文明化に對抗しうる「固有」で「太古」的な美を發見しようとするプリミティブへの欲望に支えられており、すでに西洋化してしまった都會(日本)の代わりに彼らにその部分を殘しておくことで「西洋」に對抗し得る「東洋」という言說をつくりだすことでもあった。 一方、近代韓國は柳の自己像を內面化し、次に力のある男性美を具える自己を構築することで柳のやり方を模倣した。そこに<近代>に普遍的な問題があったのである。 第十六章 <在日>作家金鶴泳の沈默 金鶴泳の「凍える口」には、日本人と朝鮮人の兩方によるナショナル·アイデンティティの强制が書かれている。たとえば日本人の下宿の大家は朝鮮人學生催に民族的コンプレックスがないことを注意し、朝鮮人友人は常に政治的であれと要求する。それは、作家の實際の生活上でもあったことで、朝鮮の批評家は金に傳統的價値觀がついていないと批判し、日本人批評家は金に朝鮮人問題をもっと扱えと要求していた。 「凍える口」の主人公催はそのような要求に朝鮮のことを勉强することでかろうじて應える。しかしその過程が見せているのはナショナル·アイデンティティなるものが「學習」によって身につくような、<習得>するものであること、同時に個的な惱みを抱えている催にはそのような過程が憂鬱なものでしかなかったということである。そこにはナショナル·アイデンティティ以外の「個」として存在する場はない。 日本人による差別は、そのことに言及しない「沈默」でもってなされる場合が多く、沈默が破られる場合は友情が成立する模樣を金は書いている。その人の屬性に觸れないことはその事柄を「劣性」として認識していることとパラレルであり、あまたの匿名の差別に加擔することで差別を顯在化することである。しかし同樣の暴力を、催もまた、自分よりひどい「吃音」の日本人友人を相手に動いている。金のテクストは、「沈默」を破ることこそ個を救いえる道であることを示唆している。 「鑿」には公共空間に自分の居場所を見つけられない靑年が描かれ、日本という空間が自分を「現せる」場所としての公共空間になっていないことが示されている。公共圈とは、聲を出していい場所なのだが、そういう場所が確立されてなかったのである。そういう意味で金のテクストにおける發聲練習は、自己の解放の運動でもある。「在日」という言葉は、彼らがいる場所があくまでも臨時の場所であることを示す。 「在日」が「在日」として認識されたのが一九六0年代の後半だったのは、日本が新たな自己構築をすべき時期だったからで、內部の他者を區別しておく必要があったからである。居場所を得られない「在日」は、自分を「弱い」ものと認識し、自殺の衝動に驅られるがそこには弱いものの生きる權利を見ようとしない强者志向主義がある。 近代國家は、自らの存續のために「强い」人間を育てようとし、弱い人間の居場所をつくろうとはしなかった。そして、弱いものの存在の意義を敎えられなかった弱い者たちは自分より弱い者、あるいは自分自身を對象に加害者となる暴力性を見せている。金もまたその犧牲者である。 第十七章 植民地末期韓國文學に見る「日本」のイメ―ジ 「日本人」になることを强制されていた近代韓國の植民地末期韓國文學には、彼らにとって「日本」とは何だったのかということと、それを習得すべく努力する人人の姿が描かれている。 たとえば李光洙にとって「日本」とは規則正しい生活であり、日常生活における靜肅さであり、宮城遙拜に代表される「國民生活」の秩序と規律の世界だった。大人たちには「日本」「國民」としての生活はすぐに習得できるものでなかったが、子供たちはたやすく、早くに習得している。 韓國の戰後最大の詩人と言われている徐ジョンジュの短編には妻に死なれた男と息子、そして母親が登場するが、そこでも日本は「秩序的世界」として表象され、それをいち早く子供は內面化している。「日本人」とは、「日本語」の使用と日本という共同體が必要としていた「規範」を身につけることで誰にでも可能なものだったのである。 韓國にとってはすべてのことに「熱心」と「誠」を盡くすことが「日本」だったが、それは「天皇」の存在を意識することでもあった。「日本」精神とは、まさに尊皇の精神だったのである。それは具體的には、時間を無태遣いしない勤勉さであり、「個」の所有を否定してすべてのものを天皇のものと考えることだった。それは家族までにも及び、「兄」も「夫」も「息子」も天皇のものと考えられていた。「尊王精神」=日本精神とは、「個」の所有を放棄する精神であり「全體」=「公」を優先する精神でもあったのである。個人の仕事さえも國家のための仕事と考えるのが、「日本」であり、李光洙は、それに反することを(西洋からの)「個人主義」「自由主義」といって攻擊している。 完璧な「日本人」であることを證明するためには自己存在までも天皇に歸屬すべきものと考え、最終的に天皇のために命を捧げうることが必要だった。「內地」と同樣、ここでも、「日本」というのは「個」を殺すことだったのである。ただしそれは、「全體」の中で生まれ變わることと考えられていた。最終的にはむろん戰爭に出て命を捧げることだった。 「秩序」と「規律」は天皇を求心点とするものだったが、飼いならされてない、「野蠻」な韓國としては「近代」を取り入れるためにも秩序と規律の內面化は必要と思われていた。儒敎的價値觀によって「忠」より「孝」のほうを優先視していた韓國人たちは、天皇のために命をささげることの矛盾を「忠」=「大孝」と考えることで解決し、「忠孝の一致」を果たした。すべての懷疑を意識の底に葬りさり隱蔽することで「日本」人になろうとしたのである。日本の母親は息子を戰場に送りながらも淚を見せないことでその自己規制が稱揚され、そのような「個」の感情の抑制もまた「日本」と思われていた。韓國の「男」たちは、「命をささげる」ことを「男」にのみ與えられた特權と考えることで「女」の優位に立ち、先に、そして確實に「日本人」-「國民」になろうとした。それは、韓國の「男」たちが「女」をナショナル·アイデンティティにおいて排除することで帝國主義と共謀していたことを示す。 第十八章 ハイブリディティとしての近代-ワシントン·ア―ビングと日本近代文學 ワシントン·ア―ビングの『スケッチ·ブック』は、明治時代、壓倒的な人氣と支持を得ていた。森田思軒や森鷗外の飜譯にはじまるその受容は、今日においてはほとんど忘れ去られているが、當時においてはア―ビングはアメリカを代表する作家として紹介されていたのである。 その受容は主に英語敎科書をとおした原語からの受容だったが、『スケッチ·ブック』は「文章」の手本とされ、日本語文脈の歐文化の一翼を擔ってもいたと考えられる。近代人の複雜な思考の表現には「西洋」の文體こそが合っていると主張されていた時代でもあってそれは肯定的に受け取られる側面もあった。やがて、「文章」が「文學」として價値化されていく中で『スケッチ·ブック』は「文學」を志す靑年たちの必携書のように扱われ、文學靑年たちは志向すべき「文體」や「文學」をア―ビングの『スケッチ·ブック』から見るようになる。繪畵技法としての「スケッチ」が、明治政府の美術敎育への盡力ととともに世間で流行していたことも『スケッチ·ブック』の壓倒的な支持の背景にあったと考えられる。 「近代」文學の「手本」を『スケッチ·ブック』にみいだし、歐文體化された文體で「近代文學」が書かれたことは、「日本」「近代文學」の歷史性、ハイブリッド性を語るものにほかならない。 第十九章 結びにかえて 漱石テクストは、「西洋」への對抗意識のもとに作られたものである。そのときに自覺されたナショナル·アイデンティティへの自覺は、「國家」の統合のために「秩序」を追求するものだったが、「秩序」志向の結果として、女や田舍や無敎育の大衆を排除している。漱石テクストの男たちは「女」にたいする不信·恐怖を隱さず、そのような傾向を支えたのは、狀況に應じて文明や女を相反する二つのレベルで表象する<近代國民國家的ご都合主義>であった。 漱石を「國民作家」にするのに決定的な役割をしたのは江藤淳である。江藤はそれまでの「人格者」のイメ―ジを「暗い漱石」に變えることで「文學的」な漱石にし、そのことは漱石の保守性を隱蔽した。同時に「己」にこだわることを「エゴイズム」として批判し、「超越的價値」に意味を與えることで漱石の「倫理性」を强調し、「國家のために書いた」作家としての漱石のあり方を强調したのである。 ナショナル·アイデンティティは、「國民」の平等を幻想させるが、その中では「國民」たる資格の選別と排除が行なわれている。女性と同性愛者などのマイノリティと、敎育を受けられなかった人たちなどがその對象で、それはナショナル·アイデンティティの男性中心主義·異性愛主義·秩序主義を示す。それは外部にたいする自國の優越を保證する「誇り」を求め、「文化」=「文學」を求めさせた。しかし、特殊や固有を求めるナショナル·アイデンティティは、「文化」と同時に「文明」をも求める矛盾を露わにするだけでなく、自國內において過酷な競爭主義·强者主義をまねいた。「强い」ことを追求する强者主義は、その終極において自己と他者を殺すことをも要求していたのである。しかし、そのことを隱蔽するために、ナショナル·アイデンティティは、樣樣な位相において都合よく違う「自己」をつくりだしている。 移民と難民が增えつづけている現在と不確かな未來において求められるべき共同體のためにも、いま、ナショナル·アイデンティティやそれを支えてきた文化―文學を、みつめなおすことが必要なのではないか。そして、所屬するが從屬しない、固定した場にいるのではなく狀況に應じて常に移動しうるような、ポジションの移動が必要と思われるのである。