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      • 무간기판(無刊記板) 『세이스이쇼(醒睡笑)』 고찰

        이은주 高麗大學校 大學院 2010 국내석사

        RANK : 231965

        日本語抄録 無刊記版『醒睡笑』考 李恩珠(Lee Eun Ju) 近世初期の最も代表的な咄本の一つに安楽庵策伝(1554-1642)の『醒睡笑』がある。その伝本には、千三十余話を収録する広本系写本と、そこから三百十話を抄出し、新たに一話を加えた略本系版本とがある。広本は原本が存せず、数本の写本だけが伝えられている。 一方、略本は刊行され、板本のうち最も古いとされる大本の無刊記版をはじめとして、中本の慶安元年版(1648)ㆍ慶安二年版(1649)ㆍ万治元年版(1658)等がある。その中で、無刊記版は寛永版とも呼ばれているが、その理由は、‘右之本依誤多有之今改乞開板者也 慶安元戌子歲初秋吉旦’という内容の慶安元年版の識語によるものであり、寛永年間(1624-44)に流行した整版本であること、大本の形であることによるものである。 しかし、慶安元年の前には寛永期(1624-1644)だけでなく、正保期(1644-1648)があるので、‘寛永年間か正保年間かは明確でない’というのが通説である。 安楽庵策伝が89歳で生涯を終えたのは、寛永19年(1642)である。寛永期なのか正保期なのかというのは、最初の板本である無刊記版の編集に策伝が関与していたのかどうかの問題にも結びつく。 本稿ではそういう点を明らかにしようと思い、無刊記版の書誌上の特徴を調べる一方、広本との字句比較を通して表記上の異同を触れてみた。 本稿のテキストとして、広本系には『南葵文庫本』を底本とする『仮名草子集成』、略本系には『台湾大学総図書館蔵本』を底本とする『醒睡笑 翻刻編 台湾大学国書資料集2』を使用した。広本と比べて字句の異同がある場合は、書物奉行の白藤鈴木が写した本を底本とする『醒睡笑 静嘉堂文庫蔵 本文編』を照合しながら調査を進めた。字句の間違い等、疑問が生じた場合は、古典文庫の『醒睡笑(寛永版)』をも比べあわせて確かめた。 まず、第一章の一節では作品の序文と跋文を調べ、板倉重宗が書いた奥書を分析した。奥書の‘元和元年(1615)之比(中略)草子にいたし給候やうにと申候処、一両年過、八冊に調給候(後略)’という内容と寬永5年(1628)という献呈日とは13年も隔たりがあるので、‘元和元年’とあるのは‘九年’の誤りではないかと疑問視されたことがある。本稿では‘九’の字を‘元’の字に書きまちがえたこともあり得るという提言をし、「祝済多」にも‘元和元年’と書くべきところを‘元和九年’と書いた例があるのを根拠にした。 二節では、吉田幸一の複製版『醒睡笑(寛永版)』を参照しながら、無刊記版の書誌上の特徴を考察した。その結果、丁付と巻数の表記に甚だしい誤謬があることがわかった。こういう書誌上の特徴は無刊記版の伝本のうち、吉田幸一藏本が最善本であることを裏付ける一つの根拠にもなれるし、それだけ板本が作者の手を離れていたことが示されるのである。 三節では、無刊記版の成立時期に対する先行研究の動向と整版印刷が再開された時期を調べた結果、無刊記版の成立時期はやはり寬永中期から正保期の間ではないかと推論できたのである。 第2章の一節では、広本と無刊記版の比較を通して導出した表記の異同を、新しく増補された字句の例と、削除された字句の例とに分けて例文を提示しながら分析を行い、その増削により話の内容がどのように変わっていったのかを調べた。 特に、無刊記版が固有名詞をはじめ、字句を増補してあるのを見つけ、さらにその増補は文章を正すための意図であったことがわかった。しかし無刊記版は漢字や振りがななどの表記にまちがいが多く疑問を抱かせるところがあり、小さな字句の差でも話の内容が一変してしまう例がいくつもあることを示した 。 次に、削除の例のうち、徳川家康の名前と職名が変わったのは、‘ことさらの稱號を要しない’ようになったという先行研究の意見よりは、登場人物が誰なのか分からないように精緻に削除した例であることが明らかになった。このような例は板倉勝重とその嫡男である板倉重宗の場合も同じで、意図的な削除であることを示唆する。 一方、雄長老の名前と狂歌が削除された五篇の咄を分析してみたところ、咄が一応‘落ち’で終わっている状態で狂歌が付けられている場合、それを削っていることが分かった。そして雄長老の名前と狂歌が削除されていない咄は、狂歌が咄の中心をなしている狂歌咄の形式を取っていることも確認できた。 しかし狂歌と名前のうち、名前だけが削除されたのがあり、一見、意図的な削除のように思われるが、当時既に出版されていたとみられる雄長老の『詠百首狂哥』にも載ってあるので意図的な削除であるとはいえないのである。しかし、どういう訳で、名前だけが削除されたのかは依然として疑問に思われている。本稿ではその点について、実名ではないと思われるが、藤五郎や市次郎など文脈の上で省略しても構わないと見られる人名が削除された例があり、雄長老の場合もこれに当たるのではないかと考えられた。 二節では、字句の異同とそれによる内容の変化に注目した。無刊記版には不規則性と誤謬が少なくないが、それには勘違いによるものと見えるのもあり、作者の意図とは関係なく版元による字句の改変と見られるのもあることを示した。特に、削除してはならない字句を削除して、改惡してしまった例がいくつもあり、無刊記版に散在している表記の誤用は、とりわけお茶や和歌、そして仏教などに関する字句が多く、その事例は文人、茶人としても有名だった浄土宗の僧侶の策伝としてはあり得ない字句の間違いであると判断できたのである。 以上、考察の結果をまとめると、無刊記版の成立に作者の直接的な介入はなかったと見られるのである。それはおそらく策伝の生前中には大本の無刊記版の刊行はなかったと考えておいてよいだろう。

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